第38回「みぎわ賞」受賞作品
〈日高堯子選〉

  羽 音(はねおと) 荒居 千織

手の甲を撫でる春風争いは止みそうにないこの地球の
三月の光を髪に浴びながら記憶の春は吸い込まれゆく
「入籍をしようと思う」と言う息子俄雨のよに電話は鳴って
決意とは君の分身 春宵にひとり予祝のワインを開ける
灯の下のロゼは気泡を保ちつつうれしいようなさびしいような
街路樹の若葉のつやが弾むころ朽葉の匂いは静まりかえる
指先をそろえてそっと差し出すとほっと息するいつものポスト
富士山に向かって伸びる滝沢の川面にゆらり菜の花映る
水鳥の戻らぬ川に残像を見ればかすかに響く羽音
二週間入院予定の急変に葡萄のつるは揺られしままに
ICUに入りて初日のひとことが父親としての最後の言葉
さみどりの葡萄のつるを根元から全部落とした空を見上げて
この年は作れない葡萄どうするの家族会議は五月のことで
病む父の十年という歳月を少女のように母は寄り添う
伝えたい言葉を奥に押し込んで夕ぐれに閉ず日本たんぽぽ
けむりたつ甲斐の峰から胎内の記憶のような遠い呼び声
歌声はウクライナブルーに広がって防空壕の中に青空
星見えぬ夜にレースのカーテンをかけたい 明日をきよめるように
羽ばたきが高く聞こえる春のあさ春のコートを羽織っていこう
顔洗う水の冷たさ懐かしく夏の便りがここから届く