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上野久雄 略年譜   沢井照江   (遺歌集『雪の甲斐駒』より)

西暦年 年齢 記    事
昭和 2年 1927年 2月22日 山梨県東八代郡錦村(現御坂町)二之宮の農家に生まれる。父甲之助、母すみの3男
昭和14年 1939年 12歳 この頃から父の影響を受け自由律俳句を作る。(大戦果なり地に野菊の花)(落ち葉ちれちれ落葉の下に僕立てば)(桑の木葉なく朝をはっきり山のかたち)など多数。
昭和16年 1941年 14歳 横浜市神奈川区青木町に住む開業医の叔父を頼って転居。
昭和17年 1942年 15歳 中塚一碧楼主宰「海紅」に入会。2年後「俳句日本」に統合されたのを機に退会。俳句を止める。筆名、一刀。
昭和19年 1944年 17歳 8月、喀血して肺結核の発病を知る。この頃から太宰治の小説を読み耽る。
昭和20年 1945年 18歳 5月29日早朝B29 400機の爆撃により横浜市の大半焼失。下宿焼失。1日逃げまわった後、横浜駅構内に眠る。
同年 8月15日、あてどなく彷徨していた三浦半島の私鉄駅の人だかりの中で、戦争の終りを告げているのだという天皇の声を聴く。
昭和22年 1947年 20歳 12月、大喀血。大量の血を見て俄かに生命への執着がわく。
昭和23年 1948年 21歳 横浜市戸塚区にあった国立療養所「浩風園」に入院。喀血をくりかえしながら、末期結核患者として絶対安静を余儀無くされる。当時、同療養所短歌会を指導していた近藤芳美先生を知り短歌への関心を深める。間もなく歌集『早春歌』を入手。これを唯一の手本として作歌を始め、先生の添削を受けたりした。
昭和24年 1949年 22歳 アメリカ製特効薬ストレプトマイシンを闇ルートにて母が入手。この注射により死期の迫っていた病状から奇跡的な恢復、40瓩以下に痩せ細った体が3ヶ月後には60瓩を超え、「結核は治る」と所内に歓声の上がる日々であった。
同年 秋、左肺に胸郭整形術を施す。肋骨7本を除去。3回の手術の後、病状安定。
昭和25年 1950年 23歳 9月、甲府市山宮町の国立療養所「清楽荘」に転院。同所に短歌会を作り近藤芳美先生の指導を受ける。メンバーに生田和恵(現在吾妹)、村松和夫(未来)、黒田ひさ江(朔日)等々がいた。
同年 「アララギ」入会。土屋文明の選を受ける。山梨アララギ会「山梨歌人」に作品を発表しはじめる。
昭和26年 1951年 24歳 歌誌「未来」の創刊に参加。
昭和27年 1952年 25歳 患者自治会委員長になり、病養者の人権や生活改善について所長と対立、度々退院を強制される。
昭和29年 1954年 27歳 4月、同療養所を退院。社会的治癒を見ないまま6年間の闘病生活にピリオドを打つ。療養所側の圧力に屈したわけではない。
同年 五味サチ子と結婚。甲府市湯村町に住む。
同年 山梨毎日新聞社の記者となる。
昭和30年 1955年 28歳 「アララギ」「山梨歌人」退会。
同年 11月、長男祐一誕生。
昭和31年 1956年 29歳 古明地実、阿部完市、村松常男らと「甲府未来」を創刊。停滞する山梨県下の短歌風土に新風を吹きこもうとする。
昭和32年 1957年 30歳 1月、第2未来歌集『河』に参加。「漂う紙片」100首を収録。
同年 6月、甲府(新青沼町「万葉閣」で「未来大会」を開く。そのとき、勤務する新聞社のストライキの最中でもあり、書記長であったことから悲壮な2日間を過ごした。
同年 10月、山梨毎日新聞社廃刊。同社退社。
昭和32年 1958年 31歳 週刊雑誌「サンデー山梨」を創刊。編集発行人となる。スタッフ11名。本文32頁の小冊子ながら多数の読者獲得。
同年 「甲府未来」の発行止まる。
昭和35年 1960年 33歳 甲府市中央1丁目に喫茶店「ラ・セーヌ」を開店。
同年 「サンデー山梨」の発行をkk東都山梨新聞社に譲渡。
昭和38年 1963年 36歳 「未来甲府派」を出す。
昭和39年 1964年 37歳 11月、長女彰子誕生。
昭和42年 1967年 40歳 YBSテレビにレギュラー出演、司会を担当。 この頃、ゴーストライター風の仕事多く、作歌を中断。
昭和48年 1973年 46歳 8月、「未来雲峰時大会」が塩山市で開かれたが不参加。その折近藤芳美先生ご夫妻をはじめ川口美根子、大島史洋、本田そのえ氏等の訪問あり。経営するラ・セーヌで懇談。その夜、長男の出場(全国高等学校野球大会)する甲子園球場へ向かう。
昭和50年 1957年 48歳 YBSラジオ、パーソナリティとして週3時間のトーク番組「モーニングサロン」を担当。同番組に”短歌を作りましょう”というコーナーを設けて短歌を作り、聴取者からの投稿を受ける。高聴取率を長時間持続。
昭和55年 1980年 53歳 YBS放送短歌会発足。放送局主催の「歌評会」を開く。
昭和57年 1982年 55歳 「未来」に復帰。同年「モーニングサロン」終る。
昭和58年 1983年 56歳 11月、YBS放送短歌会を解消。同会々員の発表の場として歌誌「みぎわ」を創刊。河野愛子氏を講師に招いて創刊記念歌会を開く。
同年 NHK学園添削講師。
昭和59年 1984年 57歳 9月、歌集『炎涼の星』刊。
昭和61年 1986年 59歳 7月、入門書『短歌教室』刊。
同年 山梨日日新聞社選者となる。
昭和63年 1988年 61歳 7月、『短歌教室2』刊。
平成2年 「未来」編集委員。
平成4年 1992年 65歳 5月、歌集『夕鮎』刊、『喫水線』刊。
同年 10月、「みぎわ」創刊10周年特別企画「近藤芳美甲斐を歌う」と題する3日間の吟行に随行する。
平成5年 1993年 66歳 4月、「近藤芳美甲斐を歌う」の2回目の吟行に3日間随行。都合6日間で山梨県下を隈なく踏破、近藤とし子、吉田漱氏をはじめ100余名参加。
同年 9月、「みぎわ」創刊10周年記念号に「甲斐路随行」104首を発表。
同年 9月12日、創刊10周年記念大会を甲府市古名屋ホテルで開催。岡井隆、小高賢、道浦母都子3氏の記念鼎談「短歌における世代間の対立」を主催する。
平成6年 1994年 67歳 12月、歌集『バラ園と鼻』刊。
平成8年 1996年 69歳 近藤芳美歌集『甲斐路・百首』を編集。
平成9年 1997年 70歳 6月、「みぎわ」月刊誌に移行。
同年 8月、「未来」全国大会を主催、第13回「みぎわ」大会を同時に甲府富士屋ホテルで開く。同年、山梨県立文学館の特別企画展「現代短歌の宴」に「みぎわ」同人5人と共に参加。
平成10年 1998年 71歳 11月、創刊15周年記念号を刊行。「創刊15周年に寄せて」近藤芳美、寄稿作品、岡井隆、小池光、道浦母都子。鼎談「みぎわ15年の歩み」大島史洋、三枝浩樹、上野久雄。
平成11年 1999年 72歳 1月、新年歌会、及び創刊15周年記念大会を講師に道浦母都子氏を迎え、山梨市フルーツパーク富士屋ホテルで開く。
同年 11月、山梨県文化奨励賞受賞。
平成13年 2001年 74歳 7月、歌集『冬の旅』を雁書館から刊。
平成14年 2002年 75歳 4月、初エッセイ集『夢名人』を山梨日日新聞社より刊。
平成15年 2003年 76歳 5月、『上野久雄歌集』(現代短歌文庫)を砂子屋書房から刊。10月、創刊20周年記念大会を甲府市ホテル談露館で開催。講演、小池光氏。朗読、岡井隆・上野久雄・さいとうなおこ・佐伯裕子・黒木美千代・稲葉峯子・花山多佳子・畑彩子・河野小百合の各氏。同時に創刊20周年記念号を刊行。岡井隆、信田一信氏ほか執筆。
平成16年 2004年 77歳 4月、「上野久雄の喜寿を祝う会」を会員有志により甲府市ベルクラシックで行う。
平成19年 2007年 80歳 3月、「みぎわ」通巻200号記念号を刊行する。大島史洋、小池光、花山多佳子、佐伯裕子の各氏寄稿。
同年 5月、上野久雄傘寿記念歌碑が笛吹市御坂町の美和神社境内に建立される。 歌碑除幕式および記念短歌大会、表彰式、傘寿祝賀を甲府市ベルクラシックにて行う。
平成20年 2008年 81歳 8月、山梨日日新聞社選者を退く。
同年 9月17日、午後8時18分、甲府市の山梨病院にて呼吸不全のため永眠。享年81歳。